2011/10/20

地人相関 石橋

石橋五郎の語る地理学の問題

地理学が地表上における分布事象の客観的描写だけに留まるのであれば、それは学問として成立するかどうかは疑わしい。そこで地理学的事象の因果関係を考察するということであるが、それは古代ギリシアから行われており、フンボルトやリッターによってより法則定立へと向かった。
しかしながら、自然地理が地形学や気候学、植物学など各専門科学に分化していったように、系統地理が進むと専門分化してしまい、地理学としての統一性がみられなくなる。そのため、研究の方向を地誌へと戻らせる、あるいは、景観という方向に向かわせる動きもシュリューターなどによってあった。
このように地理の中には色々と矛盾がある。

どうやって地理学は統一的であるべきか?
エクメネにある自然現象を扱うことで、自然も人類と何らかの関係をもち、そのために地理的対象となる。地理学の根本的な意義は、地人相関の上に存在するのだ。しかしラッツェルのいうようなミリュー理論(環境決定論的な考え)ではない。

”今日吾人が云わんとする地人相関なるものは決して人類に対する自然の影響のみを過大に考うるものではない。これと共に自然に対する人類の努力の成果の闡明にあるのであって、人が自然と相倚り合い相助くる全般の事象を指すのである。・・・。
かくの如く考察すれば今日の地理学は、・・・地理学の新使命が生れまた他の諸学に対し独自の一地歩をこれによって有せしめ得るのである”
(以上、引用)


地球的課題である人口問題、貧困問題、環境問題のうち、
とりわけ環境問題は地人相関のストライクゾーンど真ん中じゃないでしょうか。
人と自然が寄り添えない、助け合えない状態になっている状態が環境問題であり、それが解決されるとは、持続的に人間と自然が寄り添える状態
になることです。
地理教育はそういう視点を持って取り組むべきで、人間と自然をそれぞれ分析して、人間と自然のそれぞれの事情(システム)を明らかにし、両者のバランスを考えさせる。さらにそれをきちんと伝える必要がある。
伝える相手というのは、問題の当事者たち。
どう立ち振る舞うべきかに対して、人間側の事情、自然側の事情に基づいて当事者と一緒に考える。

しかし、当事者はそんな地人相関性に基づいて生きていきたいわけじゃないと思う。
生活の仕方は文化や伝統に基づいたものかもしれないし、より豊かな生活をしたいのかもしれない。
そんな時も、地理学的に考える。
当事者の属する文化、つまり理解の構造や納得の仕方はどうなっているのか、彼らの文化では何が大切なのかを明らかにし、そこから彼らが一番納得しやすいように”語り”、一番動きやすいような行動へと”促す”ことも、地理的素養がなければできない
。地域に入り込んで、地域を変えるということ。

そこまでを地理教育の掲げる教育像とした上で初めて、社会にとって地理が重要だと言えるんじゃないでしょうか。そこまでやったとしても、地域はそう簡単には変わらないですし。