●ものの本質は「いくつかの事例に共通するもの」を抽出して、帰納的に推論して把持されるものではない。本質は「直観的に」把持される。対象の本質へ到達する道は、悟性によってではなく、直観によって導かれる↓
直観 = 多様な直観 → ノエマの多様性
→「対象の認識に向かう」という事実がノエマの意味の究極的な統一性を保証している。(フッサールの解説をするレヴィナスの解説をする内田)
●ある「地域」に対する多様な地域観
多様な地域観のうち、どれが当たり/ハズレがあるわけではない
→ 多様な価値観を統合させる/共通部分を示す/出ていない地域観を示すのが地理学の役割か
→ 統合させる方法論こそ地誌学としての学問的方法
●内田が示したように、フッサールのイデーンの命題を地理に置き換えることもできる:
「地域を見る」という行為は、地域の究極的意味を空虚な仕方で現前させることではない。そうではなくて、地域を見るということの固有の本質に属しているのは、「おのれに固有の見方」をするということであり、かつ、どのような「おのれの固有な見方」を通じても、地域の意味の統一は揺らぐことはない、ということなのである。地域が人に開示する地域の相は「同じ」空間について、そのつど常に別個のものであるが、しかしつねに本質的にその下図を描かれたものなのである。
●「おのれが確信できないことを明確な言葉で述べる」というこの宣言は、自分についての宣言であるが、地理学において言い換えれば、空間の中における自分の立ち位置以外の事象について言及することである。つまり、私は、宇宙・地球・世界の広がりを知り、空間の全体性なるものを知り、そこに置ける私の位置・空間を知り、私以外について語るというごとき手順に沿って語られるべきものである。この「私以外の空間」について語れるようになる(「~は知らない」ちおう不能の語法を通じた錬磨をする)ことが地理学が目指すべきところのひとつであり、地理教育が展開していくべき領域でもある。
自分について知る ≒ 自分の周囲、環境について知る
自分以外について知る ≒ 自分について知る
自分以外について知る ≒ 自分の周囲、環境以外の世界の環境について知る、世界の広がりを知る
世界ではどんなことが起こっているのか、概観を得る。漠然とあるいは断片的に情報を集めてみたり、そこから何かを組み立ててみようとしても、世界観を導き出すには不十分である。また、個人の主観に基づけばそれだけ多様な世界観が提示されることとなり、互いの世界観についての合意や統合といった作業が話し合いや再分析、再統合を通じて行われるため、極めて煩雑になるし、世界観の否定という他者不承認という、多様性に対する根本的な否定もが可能性として含まれたまま残る。これに対し、科学としての地理学は一定の方法を提示することで科学性という根拠・方法論を与え、ほかの分析・統合との対話可能性を保持している。
どう世界を理解すればよいのか:世界理解のための人間―環境システム(課題解決以外でもM-Uシステムは有効)
※課題へのアプローチを通じて地理学的手法に基づいた地域観、世界観を得ることができる方法論である。
そのためにも、まず身近な地域でM-Uシステムを行い、その後、他地域においてM-Uシステムを応用することで明らかな方法論を用いて地域観が得られる。また、その地域の持続可能性について考慮できる可能性もある。
「間主観的な世界」