「文学的な精神活動が感情や想像力に深く根を下ろしている間、自然科学の探究は精密になった測量機器と目に映る水平線の拡大によって大きく変わった。古い自然科学は無用の長物となり、誰も振り返らなくなった。今後、人間の知はより完璧に向かっていく。
しかし、そうした完全なる知が想起されようとも、自然研究に対する真の愛情と尊厳を持っていれば、決して研究の意欲をくじかれることはない。」 Al. von H.
「われわれはみな時代の制約を受けている。悔しいとは思いませんか」 岡田先生
1844年のある自然科学者の悔しさが、ある先生の悔しさと結びつきました。
時代の制約を時代の与件として歴史的に相対化し、自らが描く物語にそって
その中で時代の要請に応えていくことは可能であり、地理としては、
そこに人間の空間性、すなはち風土的適応可能性を見出して、
具体的にアプローチしていくことが、悔しさから踏み出す一歩だと考えます。
むしろ、その時代、その空間にいない限り、アプローチできないという
貴重な一回性があります。一期一会は大事にしていきます。
悔しいという思いが、文学や歴史の研究に向かわせるように、
怒りという感情はジャーナリズムに向かわせるようです。
ちなみに、
悔しさはロングスパンですが、怒りはショートスパンですから
だから、蓄積していかないのだとおもいます。
あと、生態学ではないエコロジーはエゴです。
エコツーリズムとか、エゴです。
観光で食べていけるようなエコツーリズム提供者は
エゴが強いから観光業という資源分配システムの中で食べていける。
エゴもショートスパンです。人生一回分ですから。
怒りやエゴに身を任せないためにも
すこし長く勉強しているんだと自分に言い聞かせました。
また、だから、風土がテーマである、とも。
なぜ、大学で勉強するのか、という問いに対するひとつのアプローチでした。